夜の帳が下りると同じくして、しとしとと冷たい雨が降り出した。
私は部屋の窓からその様子をじっと伺う。
夜の雨は少し、苦手だ。
普段見えない「ナニカ」が、見えてしまうから……。
雨夜に浮かぶ哀と愛 細かな雨粒が地に落ち、打たれる音を聞きながら、私はごろりと寝返りを打つ。
一定のリズムで地を叩き葉を叩き、弾ける雨音は耳に心地よい。
いつもならその優しい雨音の子守唄で夢の世界に旅立てるけれど、今日に限っては眠りにつくことが出来なかった。
すでにすっかり夢の世界へと旅立ってしまった枕元の人魂を恨めしげにひと睨みし、私はそっとベッドから身を起こした。
少し肌寒さを覚え、寝間着の上から上着を羽織って部屋を抜け出す。
しとしとという擬音がしっくりとくるような、静かでいて物悲しい雨音を聴きながら、中庭が見渡せる渡り廊下へと歩を進める。
いつもは凛と咲き誇る庭の花たちも花弁を閉じ、或いは広げた花弁いっぱいに雨を受け、どこか憂いを帯びているように感じてしまう。
ふう、と一つため息をついて私は空を見上げた。
「眠れないのか?」
不意に、背後から低い声で問いかけられ、反射的にそちらへ顔をやった。
そこに立っていたのは、よく見知った友人。
寝間着の浴衣に身を包み、赤紫の髪は雨夜の湿気のせいかいつもより少しふんわりとしているように見える。
若草色の瞳が少し細められ、腕を組んで立つ姿は恐らく部外者には、私に答えを急かしているようにも見えるだろう。
全然、そんなつもりじゃないんだけどね。
そんな彼に小さく微笑みかけて、私は肩を竦めた。
「おとやん。……ちょっと、ねー。でも眠れないのはそっちもじゃないの?」
「……いや」
戦友でもあり、恋人でもある赤い狼獣人のサクヤ。そのサクヤが率いる自警団の部隊に所属する彼の旧友でもある、オトヤ。
元居た世界でもストイックに武道を極めんとしていたこのオトヤに、つい最近私はある提案をしていた。
「森の巫女屋敷」付きの武術講師にならないか?って。
幸いにも給料体制や巫女屋敷の武道に対する姿勢を認めてもらえて、無事講師に来て貰えるようになった。
……明朗会計でよかったと、本当に思う。
そうやって何度か巫女屋敷に足を運んで巫女さんたちを鍛えてもらっていたのだけれど、今日はお互いどうも熱が入ってしまったらしく、すっかり帰路のタイミングを逃してしまったという。
オトヤはそれでも帰ると言ったのだけれど、彼の所属する自警団が置かれている清酒と温泉の街はここ、首都イズルミの片隅からはそれなりの距離がある。
講師が疲れて帰っては元も子もないでしょ?と有無を言わさない態度でお泊りを提案し、彼がそれを呑んだのが数時間前。
何だかんだで巫女屋敷とは言えど「難民キャンプ巫女多め」みたいなこの屋敷にはそれなりに男の人も居るし、ちゃんとお風呂も男性用女性用がある。
そんなわけで快適な宿泊を提供したわけなんだけれど、彼は眠れなかったらしい。
私の、「眠れなかったのはお互い様」という言葉に彼は、私と同じように肩を竦め、腕を組んだまま否と小さく呟いた。
眠れなかったわけじゃないの?
「そろそろ床に入ろうとしていたところで貴女がこの渡り廊下に向かっているのが見えたものでな」
ああ、なるほど。安眠妨害をしていたわけですか。
それはとんだご無礼を。
「おう、それはすまなんだー。気にしないで寝てくれてよかったのに」
「そうしようとも思ったが……」
そこで一旦区切り、オトヤはほんの少し首を傾げて見せた。
「少し、郁の表情に憂いが帯びていたように見えたのでな」
「……おとやん、目いいね」
戦争だ、紛争だと血生臭いこの世界とは違う、もっと文明も発達しヴァルトリエのそれよりも凄い機械を操り、平和に暮らすことが出来る世界からやってきたというオトヤ達。
身体能力も総じてこの世界より高くなく、魔法もなく、ヒト以外の人型種族が居ないという世界から来たオトヤが、遠くの部屋の私の表情まで読み取れるというのは素直に驚く。
ので、突っ込む。
恐らく、武道をやっていたからというのもあるんだろう。そうでなくても、センスを持っている彼だし、この世界へやってきた時に黄金の門の片鱗に触れている。
それくらいの能力があっても不思議ではない、か。
「この世界の者には劣るだろうがな」
「まっ、獣人だとか他の種族は秀でた力を持ってるとか、ある能力だけ特出してるとかザラにある話だしねー」
とんだご謙遜を。
そう素直に伝えるのは止めておく。そこから応と否の応酬になるのは目に見えてるしね。
うむ。と頷くオトヤに小さく笑いかけて見せた刹那、視界の端に蠢くものを見つけ、途端に私の笑顔が凍った。
笑顔を顔に張り付けたまま、ゆっくりと目だけで「モノ」の方を見やる。
嗚呼、また来た。
雨に濡れる中庭の隅、大きな桜の木の下。
そこに居るのは死体ではなく……
「……郁?」
低い声に名を呼ばれ、私はハッと意識を取り戻した。
「モノ」の方へ遣っていた目をオトヤへと戻し、小さく苦く笑みを浮かべてふっと息を吐いた。
久しぶりに、見た気がするから動揺しただけ。そう、「モノ」は、そこに在るだけ。
自分の心に言い聞かせ、何度か深呼吸を繰り返してから、未だ怪訝そうな表情で見つめてくるオトヤへと口を開いた。
「さっき、私の表情が憂いでいるって言ったよね?……その原因がね、アレ」
アレと言いながら、私は先ほどまで目で追っていた桜の木の下を指差す。
指の先をたどるように目線をそちらへ向けたオトヤが一瞬その目を瞠った。
「……あれは?」
「おとやんにも見えるんだ?……アレが見れる人って少ないんだよね」
「モノ」を見つめたまま問うてくる彼に、私は驚き半分感心半分で返す。
実際、見えた人は少ない。
普段巫女や巫女の男の人バージョンである神和ぎ(かんなぎ)の仕事を担う人や、魔法使いなんかでも、見えた人はあまりいなかった。
霊を認識できるって人が悉く見えないというのは、結構怖いものがあるんだよね。
それを、オトヤは見えるという。素直に凄いことだと思うけれど、逆に不安にも思う。
自分の中の妄想ではなく、アレはちゃんと存在するモノなのだということが。
しとしとと降る冷たい雨粒を受けて蠢くそれを見つめながら、私はひとつため息をついた。
少し濡れたような質感を持ち、「モノ」と他との境界は霧がかかったように少し霞んでいる。
それは「モノ」が霧を発しているのか、何か別の作用があるのかはわからない。
白と黒、ところどころに赤が混じるよくわからない色合い。
見る時々によって白が多かったり黒が多かったりするから余計に表現に困る。
今日は雨の日だけれど、白が多いように見える。
こうやって冷たい雨が降る日は、黒が多かった気がする、けれど。
大きさも結構まばらだけれど、今日は中型犬くらい。人魂のタマちゃんと同じくらい小さい日もあるし、熊のように大きい日もあるけれど、これくらいの大きさが一番多いかな。
「モノ」を見据えながら、私は思考を巡らせた。
オトヤに説明をする為なのだけれど、さてどう説明しようか。
「普段、霊を見ることが可能な人でも見えることは稀でね。どういった原理で見える人見えない人がいるのか、霊以上にわかんないんだけど……」
「霊とは違うものなのか?」
「……ちょっと違う、かな。アレはね、生成り(なまなり)。霊の前段階っていうか……強い思いや思念がああやって形成したもの、かな」
私のあやふやな説明を、オトヤは黙って聞いてくれている。
なので、さらに続けて説明をしてみた。
「強い念が妄執に囚われる前とも、とれるかも。もし強い念が悪いものなら、そのまま邪念になり、怨霊になっちゃう感じ。でも、アレは悪い思いじゃないっぽい。ずっと、生成りのままなんだよね」
「ずっとか。どれ程ああやって其処で蠢いている?」
「私が物心ついて……気づいた時からずっと……かな。こういった夜に雨が降る日なんかは、出てきやすいんだー。いつもそこにいるのかいないのか、見えない時も結構あってね」
「ふむ……」
「この巫女屋敷はお母さん……今の当主の結界と、氷雨が張った結界が二重であるから悪いものは入ってこれないようになってるんだよね。だから、これはよっぽど害がないものなのかな?って」
結界が万全なわけではない。けれど、結界を破って入ってくるものがいれば、その強大な力ゆえ、気づかない筈がない。
でも、この「モノ」、生成りはいつも気がつけば其処にいるといった具合で、結界を破ったり、無理やり通り抜けてきた風はない。
よほど隙間を縫ってはいってくるのかな?
「何をするでもない。ああやってあの木の下で蠢いてるだけ。それが不気味でね。今日は白いけど、黒が多い時なんて見た目が禍々しくて……ちょっと苦手だからさっき固まっちゃった。ここんとこ出てこなかったのに」
「………………」
肩を竦めてオトヤを見上げると、彼は何か思うところがあるのだろうか、私への返事もそこそこに、生成りの方をじっと見つめて何かを考えているようだった。
「……おとやん?」
「ああ……すまない。何でもない」
「ホントに?」
「……ああ」
頭(かぶり)を振りながら何でもないと言うオトヤを見上げ、私は首を傾げる。
何でもないという雰囲気ではなかったけど……。
けれども、彼がそういうのだから、そうなのだろう。
一度問い返し、返答が同じなのを確認してから、私は一つ頷いた。
「そっか。……じゃあ、そろそろ戻ろっか。……生成りがまだ変化してないのも確認したし」
「そうだな。夜ももう大分更けた。このまま起きていれば明日に障るだろう」
「お肌にも悪いしねー。よっし、いこっ」
「郁、先に往ってくれ」
「…………?……うん」
踵を返しながら行こうとオトヤに声をかける。
私と同じくして踵を返しかけたオトヤが私の顔を見つめ、先に往けと言ってきた。
何か用があるのかな?
私は頷いて特に気にすることなく、廊下を歩き始める。
ちらりとオトヤを振り返ると、彼は一度生成りの方へ向き直り、その口を開いて何かを呟いた。
とても小さな呟きで、私には聞こえない。
それは、生成りに向けて喋りかけているようにも見え、私は首を傾げた。
「おとやんー?本当においてくよー?」
「……わかった。ボクも往こう」
私の呼びかけにオトヤは私の方へ振り向き、頷いて私の横まで歩を進めてくる。
今度は迷いなく、私を通り過ぎて廊下の先目指して歩くオトヤの後ろをついて歩くように進み、分かれ道で互いに立ち止まった。
「えーっと、じゃあおとやんおやすみ?」
「ああ、おやすみ。……郁」
「……?なーに?」
おやすみ、とお互い口にしながら、引き止めるようにオトヤが私の名を呼んだ。
いつも通り、憮然とした顔に少し戸惑いのようなものが浮かべられてる気がして、私は首を傾げてオトヤを見上げる。
どうしたんだろう?
「……貴女はある意味幸せだな。家族に、恵まれている」
「?う、うん。そうだね……こんな色々不都合抱えた子供だけど、みんな愛してくれてて嬉しい限りだよ」
オトヤの突然の言葉に思わず面食らい、返答が月並みになってしまう。
しかし、その答えに満足したのか、オトヤは小さく、本当に小さく口許に笑みを浮かべて再び「おやすみ」と一言残し、廊下の先へと消えていった。
私も、よくわからないまま廊下を歩き自分の部屋へ向かう。
空から落ちる雨の音だけがやけに大きく響いて耳に残る。
何とも言えない気持ちを抱え、窓から空を見上げた。
「……朝には、止んでるといいなぁ……」
* * *
優しい雨の音を耳に受けながら、オトヤは渡り廊下を只管自分に宛がわれた部屋へ向かって歩いていた。
歩きながらぼんやりと考えるのは、先ほどまでの郁とのやり取り。
そして、生成りのこと。
「貴方が誰なのか、ボクにはわからないが……これだけは言える。心配は、しなくていい。郁は元気に強く育った。きっと貴方が護ろうとしたおかげなのだろう」
郁は言った。物心ついた時より、生成りはそこに居たと。
尚、郁は言った。この屋敷には当主と刀神による結界が張り巡らされ、悪意ある魔物やその類は何人たりとも損害なく結界を抜けることは叶わぬと。
ならば
「貴方は、郁を護って絶え、それ以来ずっと其処にいるのだろう。当主が結界を張り巡らせるよりも前から」
結界の外より無理やり侵入すれば、家人の誰かが必ず気づくものだと、郁は言った。
しかしこの生成りは気がつけば桜の木の下にいつの間にかいるという。
ならば
「強い想いや思念が形成すもの。その強い想いは『心配』ではなかろうか。ボクも郁の呪いに似たあの不都合を聞かされた。短命のことも存じている。貴方もそれが『心配』で其処に留まっているのではないか」
死して尚思念として残るほどの強い感情。その素が表すところは『心配』。
それほどまでの感情を抱く相手は、恐らくかなり限られてくる。
親、兄弟、恋人。
郁の幼少時より見える生成りが恋人ということは恐らく無いだろう。
つまるところ
「貴方は以前、郁の家族だった。志半ばにして死を迎えた後も尚、郁の心配をしているのではないか」
もしこの仮定が正解だとするのなら。
オトヤは逡巡するように一度目を瞑り、決意と共にそれを開いた。
「心配は、しなくていい。郁を如何にかせんとサクヤもヒロヤも、氷雨様も動いている。勿論ボクもだ。必ず、如何にかしてみせる。だから――」
「おとやんー?本当においてくよー?」
決意の言葉は志半ばに、郁の呼びかけと天落つる雨音によりかき消された。
ふぅ、と一つ息を吐き、オトヤは生成りから目線を逸らす。
「……わかった。ボクも往こう」
踵を返し、郁の元へと向かった。
「…………大見得を切ったものだな」
耳に心地よい雨音を聴きながら、窓から中庭を見下ろし小さくごちる。
「……見得で終わらぬよう明日から喝を入れていかねば」
あと三年しか生きられないと笑顔で言う少女の為に。
何より友の為に。
オトヤは人知れず握った拳に力を込め、決意を胸の内に秘めながら、その場を去る。
雨の音だけが日が明けるまでの数刻、まるで負の感情を全て洗い流すかのように、しとしとと淡く優しく降り続いていた。
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