頬に当たる風が冷たい。
目の前に広がる赤い夕日が目に眩しい。
秋桜の花が、目の前の光景をあざ笑うかのように場違いなほど咲き誇って秋の風に揺れていた。
「…………大好き……っ!!」
年若い、幼子とも言える少女が、唇を噛み締めながら無理やりに笑顔を作り、目の前に対峙する男へとその身に不釣合いなほど大きい刀を振り下ろし、一刀した。
まるで花吹雪のように、赤い血がバッと辺りに飛び散り赤の軌跡を作る。
双眸を開いたままくずおれたその男を見下ろし、少女は荒い息を吐いた。
「………………」
ただただ、呆然とその死体を眺める。
感情が欠落したかのように、何も感じない。
暫く、そうしていただろうか。
開かれたままの双眸がぎぎっと動き、生気のない目で少女を捉えた。
「っ……!?」
紺色だったはずの瞳が紅く染まり、ヒトであった身が、獣人の其れへと変化している。
赤い毛並み。赤い瞳。狼獣人の証である尖った獣の耳と、赤く長い尾。
其れは、少女がとてもよく知っている姿で。
見下ろせば、少女自身も幼子の見た目から年頃の其れへと成長をしていた。
全身を覆う赤よりも更に鮮明な血の赤を纏い、獣人が少女へ目をやったままその口を開いた。
「ひとごろし」
少女の耳に確かに、その言葉が届く。
真っ赤に濡れた手を見やり、そこに握られた血に染まった刀へ目を向け、少女は目を瞠った。
「……あ、…………」
戦慄く唇で何かを紡ぐより早く、
「シタイ」である獣人が、再びゆっくりとしかしはっきりとした声で囁いた。
「人、殺し」
「あ……、っ…………ああああぁあああアアァぁああアアア!!!」
少女の絶叫が世界へ木霊し、ゆっくりと其処は暗転した。
「っっっ!!!」
「うお!!?」
恋人であるサクヤの肩へと寄りかかり、うたた寝をしていた郁がかっと目を見開き、弾かれたように飛び起きる。
肩を貸しながら、クロッキー帳へペットのちくわぶのクロッキーをしていたサクヤは、驚いた様子で郁の方へとその顔ごと視線を向けた。
まだ夢と現実の境目がわからない様子の郁が動揺した様子でしきりに辺りを見回している。
その双眸からは、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちていた。
「恐い夢でも見た?」
「ッ……!!」
サクヤの優しい声音にびくりと肩を震わせて、郁が彼を見上げる。
その瞳は恐怖に怯えており、心配そうに自身を覗き込むサクヤを捉えると、安心したように一度小さく揺れた。
「……サクヤ」
「おう、おはよう。……あーあー、こんなに涙たらして」
ぼろぼろと際限なく零れ落ちてくる涙を袖口でわしわしと拭ってやり、サクヤが郁を抱き寄せる。
刹那、郁の背が強張ったが、安心したようにサクヤの胸に顔を寄せ、縋るように彼を抱きしめた。
「……怖い夢、見た」
「だろうなぁー、その様子じゃな」
優しく背中をさすりながら、サクヤが苦笑する。
「どんな夢……って聞くのは酷かな。ほら、怖い夢はどんどん話すといいっていうからさ」
「……ん、よく……覚えてない。何か、とにかく怖いってことだけは覚えてるんだけど……」
サクヤの胸にすり寄りながら、郁がごちる。
悪夢に限らず、目を覚ませば途端に泡沫となるのは夢によくある話だ。
何とも言えない気持ちだけが胸に残り、その原因は忘れ去られるというのは何とも溜飲の下がらない話ではあるが。
背中、そして後頭部をぽんぽんと優しく撫でながらサクヤは郁へと微笑んだ。
「覚えてないのなら、その夢自体忘れちまえ。夢は所詮夢だからさ。引きずられることなんてないよ。それに、あんまり無くとおめめが腫れてかわいこちゃんが台無しだってねー」
「……なっ、可愛くないしっ別に可愛くないしっ」
サクヤの冗談交じりの物言いに郁の頬がかっと紅くなり、顔を上げて抗議の目をサクヤへと向けてぷうっと頬を膨らませた。
彼女は知らない。この動作自体がすでに、サクヤにとっては可愛いものだということに。
「……ぷっ、なんて顔してんだよおかめさーん」
そんな愛しい恋人の姿に思わず失笑し、頬をつんつんと軽くつつく。
紅い頬のまま、郁が更にぷうっと頬を膨らませてそっぽを向くのだから、それが尚のこと可愛い。
「どうせおかめさんですからーっ」
「可愛いっていうと怒っておかめちゃんっていうとまた怒って、郁は可愛いなぁもう」
堪え切れず口許を手で覆ってサクヤがクククと笑いを漏らす。
その様子にまた拗ねたような顔で郁が睨みつけ、その胸元を一度とんっと拳で叩いた。
ぐえ、とわざとらしくサクヤが声をあげ、郁を見下ろす。
クスクスとお互い笑い合い、郁は今度はそっとその胸元へ手を滑らせ、縋るような目をサクヤへと向けた。
「……どった?」
「サクヤ…………」
少し不安げに揺れる瞳。真剣な、眼差し。
まだ、先ほどの夢を気にしているのだろうか?
サクヤは小首を捻り、真面目な様子の郁に合わせて真顔を作った。
「……サクヤは……居なくなったり、しないよね?」
「…………へ?」
言葉の真意が分からず、突然の問いかけに素っ頓狂な声を漏らすサクヤへ、郁は尚も視線を投げかける。
「……死んだり、しない……よね?」
幼子のように怯えた様子で、サクヤの手をぎゅっと握る郁へと戸惑った視線を送り、一瞬逡巡するサクヤ。
普段は底抜けに明るい彼女だが、時折こうやって何かの不安に駆られる様子を見せることが度々あった。
何を考えての行動か、サクヤにはわからない。わからないからこそ、彼はその都度、正直な気持ちを郁へと向けていた。
「なーんども言ってるだろ?俺は死なない。君を置いて死ぬもんか。あ、寿命は別だけどね」
「……うん」
まだ不安げな様子の彼女の頭を、幼子にするようにぽんぽんと撫でながらにかりと笑う。
そうすると、彼女が幾ばくか安堵をしてくれるのをサクヤは知っている。
「だからさ」
「……ん?」
いつもより少し低い声で、郁へと二の句を告いだ。
至極真面目な時、サクヤの声がぐっと低くなることを、郁は知っている。
いつも以上に真面目な様子のサクヤを見上げ、先ほど彼がそうしたように、郁も首を捻って彼へと視線を向けた。
「……だから、郁も死ぬなよ?呪いだとか、初代のあれだこれだとかさ、全部ちゃんと乗り越えよう。未来はさ、ちゃんとあるってわかったんだから」
にこりと優しげな笑みを浮かべ、サクヤが見上げる郁の頬へと顔を寄せてそっとそこを擦り合わせる。
巡りの始めにやってきた未来の子だと言う赤髪の少女の言葉を思い出しながら、郁はそっと目を瞑って頷いた。
温かい言葉がすとんと胸に落ち、それがじわりと広がって温かい気持ちが増していく。
微笑みながら郁からもサクヤへとすり寄り、何度も頷く。
「うん。うん……。私、死なない。サクヤと一緒に、生きてく」
「おじいちゃんおばあちゃんになったらまた連理木を見に行くって約束もしたろ?ちゃんと約束は守らないとな?」
「針千本飲ませられないように?」
「おう。千本も飲んだら俺、狼じゃなくてハリネズミになっちまうわ」
「ふふっ、それはそれで可愛いかも?」
「……勘弁して下さい死んでしまいます」
「……ぷ」
「…………ふ、」
額をこつんと合わせたまま、何時もと変わらない穏やかな会話が繰り広げられ、最後に其れは笑い声となって、住処の隅まで響いていく。
すっかりクッションの上で丸まっていたちくわぶが欠伸をひとつ。
のんびりとした動作で笑い合う二人を交互に見つめ、朗らかな表情でうなんなと鳴いて再び午後の陽気の中、夢の世界へと旅立っていった。
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