時々夢に見る光景。
あの日のこと。
それはきっと私が心の奥深くで抱えている心的外傷ってやつで。
苦い記憶と耐えがたい苦痛。それを感じて私は寝床を飛び起きた。
時刻はまだ夜半。
窓からは柔らかな月明かりが差し込み、開け放った窓からは夜半の冷たい風がまるで私を責めるように流れ込んできていた。
喉の奥に酸っぱいものを感じ、私は部屋を駆け出してトイレでそれを全て吐き出す。
苦い苦い記憶も一緒に出ていってくれることを願いながら。
「…………ご主人たま……」
「っ……、タマちゃん……。ごめん、ね。心配かけて。いつものアレだから……」
涙を滲ませて苦いものを吐き出す私を、心配そうにおろおろと見下ろす人魂。
使い魔として、供回りとして、物心ついた頃から傍にずっと一緒にいてくれた大事な友人。
その人魂は私と感覚の一部を共有しているらしく。
私が悲しめば彼も悲しみ、私が傷めば彼の心も痛み、こうやって私が夢を見れば彼は同じ夢を見る。
だからこそ、彼には隠し事は無意味だ。隠そうとすればするほどそれは彼の心にダイレクトに響いてしまう。
だから、今回のことも彼は知っている。
私が抱える心の闇も――
「……傭兵に、ですか?」
とある昼下がり。
私はずっと考えていたことを当主であるお母さん――赤池 静彗に提案していた。
凛とした佇まいの彼女は、表情一つ変えずに私の提案へ首を傾げて問いを返してきた。
なぜ、と。
私は答える。
「……見聞を広める為に。私が、どれだけこの世界で通用する力をつけることが出来たか、確かめる為に」
恐らく、とても短絡的な理由なんだろうとは思った。
けれど、私はこの「赤池」という籠から抜け出したくて。
寵愛され、何もせずとも生かしておいてくれる狭い鳥籠。
そんな中で、そんな狭い世界で幸せと思い込み、一生を過ごせるほど私は愚かではない。
ここに居れば安全だろう。
ここに居れば安泰だろう。
けれど、戦乱の世にあって尚、血に拘るこんな古い家に縛られて何が安全だろう、何が安泰だろう。
世間には「忌み子」となじられ、家には「御子」として崇められる。
そんな生活に飽き飽きうんざりしていたのかもしれない。
本音を言えば、家から出れるのなら何でもよかった。
けれど、無茶をしたところで目的は果たされないのはよくわかっている。
この私の母なる人物は、こと家において、こと私において、目的と手段を選ばない。
ちゃんと段階を踏んで許しを乞うて。それでダメなら、その時は或いは。
まっすぐ彼女の藍色の瞳を見つめ、彼女が口を開くのを待ち侘びる。
「……わかりました。良いでしょう」
それはいとも簡単に。あっけなく訪れた。
許しの言葉。肯定の言葉。
「傭兵として貴女の名を登録しておきましょう。近日中に一部隊を任されることとなります。供回りとして何人か国屈指の傭兵を雇い、貴女を隊長として敵陣営への遠征へ駆り出されることとなります。いいですね?」
目の前の書物へ書付を行いながら、彼女は鈴を転がすような声で私へ言い募る。
深く頷き、一礼をして部屋を出ようと踵を返したその時。
その背中に、彼女は一つの問いをかけてきた。
「……貴女に、本当にできますか?」
肩口まで彼女を振り返る。
その目はとても真剣で、でもどこか私のことを心配していて。
小さな苦笑を浮かべて私は肩を竦め、それを曖昧な返事として部屋を出た。
そんなこと、私が一番知りたい。
まだやったこともないことを出来るかどうか量るなんて出来っこない。
けれど
彼女の問いが私の思うところとは全く違うところにあったということを
この時の私は、知る由もなかった。
「自陣崩壊……!これ以上は無理です赤池隊長!!」
降りしきる雨。
倒れて動かない仲間。
木偶の坊と化した私の代わりに指示を出し、奔走する傭兵達。
はじめて向かった遠征という名の戦争は、散々な結果だった。
「負傷者多数!死者が出たという報告もあります!赤池隊長、ここは勇気ある撤退を!」
「……撤退…………」
伝令係が降りしきる雨の中、うつろな目をした私へと叫ぶ。
「それもまた戦略です!どうか、どうか……、っ!?」
膝を折り、私が「応」と口を開くのを待つ彼の前へ、敵の一人が迫っていた。
斧を振り上げ、丸腰の彼へと押し迫る。
「危ない!!!」
私は叫び、咄嗟に自身が持つ刀へと手をかけ、敵の男が斧を振り下ろすより早く、彼へと居合いの一閃を浴びせていた。
「……ぐ」
短い断末魔。
肉が断たれる感触。
雨に流されて尚色濃く香る鉄に似た血のにおい。
「お見事です、赤池隊長!」
膝を折ったまま頭を下げる伝令係の声が霞んで聞こえる。
抜刀したままの手はカタカタと震え、握り締めたままの刀の先からは、雨を受けて薄く滲んだ赤い血がぽたりぽたりと流れている。
胸中が音を立てた気がした。ざわり、と。
伏した男へと目を向けると、うつろな双眸がしっかりとこっちを見つめていて。
夢にまで見た幼き日の悪しき記憶が、その刹那色鮮やかに蘇った。
「……赤池隊長?」
伝令係の声が遠くに聞こえる。
駆け寄ってくる傭兵仲間の顔が険しいのに気づいた時にはもう、私は胃の内容物を全てその場にぶちまけ、気を失っていた。
「アレが隊長だと?」
「仕方がない、初陣だ」
「けれども」
「焦るな。始めは皆、ああだった」
「だがしかし」
「彼女は」
「忌み子だ」
馬車に揺られ帰る道すがら、夢うつつの私の耳に届く数々の罵詈雑言。
ああ、わかっている。
私は戦いに、戦争に向かない。
私は……人を殺せない。
夢に見るだけだと、思っていた。
父を斬ったあの日のこと。あの感触。
自分の背負った罪と業を時々思い出す為のものだと。
けれども。
それはとても色濃く私の中に残っていて。
あの感触も、最期の父の顔も、血のにおいさえも。
覆うようにかけられていた毛布の一片を握り締め、私は静かに涙を流した。
唯、静かに。
母の言った言葉を思い出しながら。
「負傷者多数!死者が出たという報告もあります!赤池隊長、どうなさいますか!」
「…………ッ!?」
降りしきる雨の中。
伝令係が膝を折り、私の指示を待つその光景に、私は奇妙な既視感を抱いた。
雨の戦地を見渡し、状況を確認する。
負傷者、多数。
死者の報告。
けれど、地に伏す仲間が少ない。
あの時はもっと沢山の仲間が倒れていて、伝令係も「撤退を」と叫んでいた、気がする。
「……郁ちゃん?」
私の傍に控えていた巫女服の女性、遮那さんが心配そうに私を見つめて顔色を伺ってきた。
あれ?この人は、先の戦いにいただろうか?
恐らく私は怪訝な顔をしていたのだと思う。
心配そうな顔の彼女がそっと私へ歩み寄ってその眉を八の字に歪ませた。
「大丈夫?無理はしてない?」
「……だ、いじょうぶ。……ねぇ、遮那さん……この戦い……前にも、あった気が、するんだ。私、おかしくなっちゃったのかな……?」
心配げな彼女を更に困らすことはしたくなかったけれど、自分の中に湧いた疑心と不安を一人で抱えるのは重くて。
動揺する私を前に、癒しの巫女は困ったような柔らかな微笑みを浮かべて小さく頷いた。
「そうだね。郁ちゃんは気づき始めたんだね。……そう、恐らく。僕が来る前の「巡り」できっとあったんだろうね。わかる郁ちゃん?この世界は何度も何度も巡っているんだよ。三年の同じ月日を」
「三年……?巡って……同じ月日を……?」
一瞬、巫女の言っていることが理解出来なかった。
一体いつから?
三年の月日をこの世界は巡っていた、と?
「全部同じじゃあ、ないみたい。けれど、少しずつそれこそ流転しながら……同じ月日が四季の移り変わりのように当たり前に、過ぎて繰り返してる」
敵陣を見据えながら、巫女が凛とした声で紡ぐ言の葉。
その声にはっとしながら、私は一つの恐怖を感じて彼女へ更に泣き言を漏らした。
「同じじゃないけど、巡ってる……じゃあ、私はまた殺さなきゃ、いけないの?何度も、何度も……」
徐々に蘇る記憶の中で、一つの気がかりがあった。
それは、敵の斧使いの彼のこと。
巡りに気づいていないだけで何度もあったであろうこの戦局。
その終盤、私は伝令係に迫る彼を何度も何度も斬り捨ててきたはず。
まだ見ぬ敵に怯え、指先が冷たくなる感覚を引きずり、泣きそうな顔を巫女へと向ける。
気づかなければよかった。
そうすれば、その斬殺の苦痛はその巡りだけの記憶。一度きりの記憶だったのに。
気づいてしまえば、さてそれはどうだろう
永久に続くこの輪廻の世界で、私は……
「……殺さなくて、いいんだよ?」
青天の霹靂とは、このことか。
巫女の言葉がやけに綺麗に響き渡った気がした。
「殺さなくて、いい。殺せないなら、尚更ね?三年の時を巡る閉ざされた箱庭の世界……勝利も敗北も、死さえもなかったことに出来る歪んだ空間。
記憶が巡るのなら、抗えばいいんだよ。軌跡を辿る必要はないんだよ。殺せないなら、殺さなくていい。殺しても殺さなくても生死は元通り。なら、殺さない方がよくない?もしこの巡りで輪廻がとまれば、殺さなかった彼は生き延びられる。……戦争を渡り歩く傭兵としてそれは失格なのかもしれない。
でも、戦い殺すことだけが戦ではないはずよ」
柔らかな、慈しみに満ちた声。
そういえば、この巫女に出会ったばかりの頃も、彼女は自身より一緒に迷い込んだ旦那さんの心配ばかりしていたっけ。
不思議と、遮那さんの言葉は毎回すとんと私の中に下りてきてくれる。
今もそう。
頑なだった私の心が随分とほぐされた気がして。
恐怖に歪んでいた心がちゃんと元の形に戻った気がして。
彼女に微笑みを返そうとしたその刹那、側の茂みが動きその向こうから見知った顔が姿を現した。
件の斧使い。
険しい表情で此れまでの巡り同様、伝令係へとその斧を振り下ろそうとする。
「危ない!!」
私は叫びながらその身を伝令係と彼の間にすべり込ませ、そしてこれまでの戦いとは打って変わり、その重い斬撃を手甲で受け止めた。
ギチギチと金属の擦れる嫌な音が響く。
そうだ。
気づいたなら、変えればいい。
自分の行きたい場所へ。自分のしたいことへ。
睨みつけてくる男を見上げ、私はにんまりと口許に笑みを浮かべていた。
渾身の力を込めて斧を弾き返し、後ろに飛び退いて伝令係と巫女を護るように立ち塞がり、男を見据える。
私の背後で巫女が小さく激励するように囁いた。
「郁ちゃんなら、出来る。きっと、出来るわ。相手をよく見て……死なないように、急所へ打ち込んで。きっと、戦意を喪失させられる。郁ちゃんの力なら」
肩口まで振り返り、巫女へ力強く頷く。
すらりと抜刀した刀を構え、たんと地面を蹴って一瞬で男へと肉薄する。
果たしてその戦いの行く末は――
「本当に大丈夫ですぅ~?……その、オイラ、そのご主人たまの、夢を……」
洗面所で顔を洗う私へ人魂が申し訳なさそうに夢を覗き見してしまったことを謝罪してくる。
とっくの昔に知っていることを言われ、謝罪されたところで、今更咎めるようなことはしない。
それは人魂もわかっているだろうに、律儀なことだ。
小さく微笑み、肩口に浮かぶ彼を優しく撫でて私は首を横に振った。
「大丈夫よ。……いつか、きっと。乗り越えられるって私は私を信じてるから」
苦い記憶。
父を斬った日のこと。
……斧を使う彼を斬った日のこと。
けれど。
けれどさりとて。
後者の記憶はどうだろう。記憶として私の中には刻み込まれている。
だがそれは、この巡りではなかったことだ。
記憶として残ることは嘆かわしいことだけれど、私が彼を斬った理はこの世界には今は存在しない。
それは恐らく、とても喜ばしいこと。
巡る世界。繰り返す世界。巻き戻る世界。
その中で気づいたものだけが密やかに行えるささやかな抗い。
記憶を保持すればするだけ、知識は深まり力はついて、それはそのまま自身の成長へと繋がる。
気がつけば、私の不殺も「信念」として部隊仲間へと知れ渡っていった。
高尚だと言う人間もいれば、戦乱の世に於いてあきれるほどに阿呆だと罵る人間もいる。
記憶をすでに引き継いでいた傭兵の仲間達には「これでやっと一人前」の称号をもらうこともできた。
誰だったか、巡りに気づいたからこその信念は天晴れと褒めてくれた人がいた。
それは、私を大きく前進させるきっかけにもなった気がする。
心的外傷――トラウマ
大きな恐怖やショックで心、精神に受けた傷のこと。
身体の傷がやがて癒えるのに対して、こちらは癒えることはないのかもしれない。
けれど、その大きな傷痕と仲良く一緒に生きていくことはきっと可能だと思う。
今では笑って対峙できるようになったあの斧使いの彼との戦いのように。
彼がいつか記憶を引き継いだ時、その時はこのことを話してみようか。
もしかしたら盃を交わせる中になるかもしれない。
笑って、この馬鹿でかいお祭り騒ぎのような戦を楽しもう、と言えるかもしれない。
そう考えると、ほんの少し巡りが楽しみになった気もした。
これは、私が抱える心的外傷とそれに至るまでの10の巡り、12の巡りのお話。
ほんの些細な、昔話の一幕。
うっすらと東の空が白んでいくのを窓越しに見つめ、私は人魂を撫でて、もう一眠りしようと夢路への誘いを向けてみる。
僅かな眠気を伴った頭の中では、あの日の母の問いが柔らかく響いていた。
できますか?の問いに、今なら恐らく、きっと。寸の間もなく、答えることが出来るだろう。
寝ようの問いに大仰に頷く人魂を頭に乗せ、私は自身の部屋へと歩を進めた。
そう……確かな足取りで。
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